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2008年2月1日
■第16号■
発行:社団法人唐津観光協会
 
 佐賀県唐津観光協会が発行するニュースレター「唐津んもんだより」第16号です。
 唐津市のイベント・観光情報をお届けします。

【INDEX】


見所・イベント予告
特集: 松浦佐用姫ゆかりのスポット
■長者原、厳木
■川上神社「殿原寺」、姫小路(浜玉)
■もう一つの佐用姫伝説が残るお堂 〜殿原寺(でんげんじ)〜
■狭手彦への想いを抱きながら登ったといわれる山頂へと続く小道 〜姫小路〜
■佐用姫が行く船を見送った 領巾振山(ひれふりやま)
■足跡が残る 佐用姫岩
■佐用姫が衣を乾かした 衣干山(きぬぼしやま)
■狭手彦が佐用姫を祈った 恵日寺(えにちじ)
■田島神社(呼子)

■まつらの姫達の宴
■恋人の聖地・浜野浦の棚田

■メールマガジン「いいかも唐津」が創刊

■唐津・おも城話その(4)
 ・唐津城は400年前のリサイクル建築?
 ・唐津城築城400年記念イベント 「城を移す−名護屋城から唐津へ」
 ・第27回全国城下町シンポジウム唐津大会情報

■ATAだより 
 ・“よかばいガイド”(仮称) 
■「唐津の食」紹介
 ・我楽房のパン ・開花堂の和菓子 ・佐用姫カクテル
 

唐津よもやま話 
■「唐津ゆかりの人」紹介
 ・辰野金吾その(3)唐津市内ゆかりの場所 

■地酒の酒粕と馬油を使った美肌石けん「さよ姫の玉手箱」
■遥か東北地方にも伝播していた“松浦佐用姫伝説”



見所・イベント予告


特集: 松浦佐用姫ゆかりのスポット

 女性の方から告白できるバレンタインデーなどなかった1500年前、こんなにも情熱的でそして悲しすぎる、お姫さまの物語が唐津にありました。

 宣化天皇二年(537年)、朝廷の命を受け、隣国の新羅に侵略されていた朝鮮半島の任那、百済を救援するための兵を率いて唐津へとやってきた大伴狭手彦(おおとものさでひこ)は、滞在先の長者の娘、佐用姫(さよひめ)と恋に落ち、やがて夫婦の契りを結びました。
 いよいよ出兵の日となり、挟手彦は「これを私と思って待っていて欲しい」と、佐用姫に銅の鏡を手渡します。別れを惜しむ佐用姫は玄界灘を見渡す鏡山に登り、狭手彦の船に領巾(ひれ・婦人が肩にかけて左右に長くたらす薄い布)を振りつづけました。狭手彦を慕うあまり遠ざかる船を追って山を駆け下りた佐用姫は、川を一気に飛び渡り、対岸の大岩に飛び移りました。その時、狭手彦からもらった大事な鏡の緒が切れ、鏡は川底深く沈んでしまいました。
 しかし佐用姫は、川で濡れた衣を乾かしさらに船を追いつづけ、呼子(よぶこ)の加部島の天童山に登って船を探 しますが、すでにその姿はなく、悲しみのあまり七日七晩泣き明かし、とうとう石になってしまいました。
 このお話が、日本三大悲恋伝説の一つとして松浦(唐津)地方に伝わる「松浦佐用姫物語」です。今回は、唐津各地に現在も残っていて、物語に登場する歴史とロマン溢れる見所をご紹介します。

■長者原、厳木
松浦佐用姫、生誕伝承の地 
〜長者原(ちょうじゃばる)〜

 肥前風土記」によれば、大伴狭手彦が朝鮮出兵の準備中に滞在したのが篠原村とされ、そこで狭手彦は身の回りの世話をした長者の娘、佐用姫に心ひかれたといわれています。松浦佐用姫祈念碑が立つ長者原は、現在も「篠原」の地名が残っている事から松浦佐用姫、生誕の地といわれています。唐津市とお隣の多久市の市境にあり、近くを通る総延長約2100kmの九州を一周する自然探勝歩道「九州自然歩道」を、自然に浸りながらゆったりのんびりと散策するのもおすすめです。

【お問い合わせ】 唐津市役所厳木支所産業課               TEL0955-63-3111(代表)

高さ14mの佐用姫像が出迎えてくれる道の駅
 〜厳木(きゅうらぎ)・風のふるさと館〜

 道の駅「厳木・風のふるさと館」は、一般道路のサービスエリアとして休憩のためのパーキングエリアの他、お茶やゆずをはじめ安くて新鮮な野菜や山の幸、地元の食材を使った手作り饅頭など、厳木の特産品が豊富に揃っています。高さ14mの白亜の佐用姫像は、台座を中心に15分間で1回転します。地元では、道の駅付近を走行中に、回る佐用姫像の向きでその日の占いをする人もいるそうです。

【お問い合わせ】 道の駅「厳木・風のふるさと館」
           TEL0955-63-3737
           http://michinoeki-kyuragi.jp/



※佐用姫と狭手彦の伝説にふれながら、唐津を旅する「佐用姫ロマン紀行」は、
  こちらから〜  http://www.karatsu-kankou.jp/history_sayohime.html

もう一つの佐用姫伝説が残るお堂
 〜殿原寺(でんげんじ)〜

 浜玉町平原(ひらばる)座主(ざす)の殿原寺は、佐用姫が住んでいた屋敷があった場所、といわれています。観音堂には、佐用姫の姿を写し取った観音像「佐用姫観音(根木観音とも呼ばれます)」があり、60年に一度御開帳されます。観音像は、狭手彦の出兵を嘆いて病になり亡くなった佐用姫の悲しみを思いやり、屋敷の庭の椿で彫られたと言われています。また、観音堂の横には、佐用姫の物語を詠った万葉歌碑が建立されています。

【場所】唐津市浜玉町
    平原座主川上神社境内殿原寺
【お問い合わせ】 (社)唐津観光協会浜玉支所
           TEL 0955−56−6937

狭手彦への想いを抱きながら登ったと
  いわれる山頂へと続く小道 
 〜姫小路〜

 鏡山を登る小道で、佐用姫が狭手彦に会うために通った道といわれていますが、正確な場所は定かではありません。この道があったと思われる地区には、浜玉どりの炭火焼が楽しめる「いろり姫小路」があります。眺めの良い高台にあるこのお店では、かつて佐用姫が見たであろう景色を楽しみながら、浜玉どり料理を味わうことができます。

[いろり姫小路]
【住所】 唐津市浜玉町横田下542−6
【電話】 TEL 0955−70−5757
【営業時間】11:00〜14:00(金・土・日・祝のみ)
        17:00〜21:00
【おすすめメニュー】 浜玉どりセット 1,580円
             浜玉どりのたたき 650円
※佐用姫と狭手彦の伝説にふれながら、唐津を旅する「佐用姫ロマン紀行」は、
  こちらから〜  http://www.karatsu-kankou.jp/history_sayohime.html

■佐用姫が行く船を見送った
   領巾振山(ひれふりやま)

 狭手彦との別れを惜しみ、行く船を見送るために佐用姫は鏡山(かがみやま)に登り、狭手彦の武運と無事を祈って船影が見えなくなるまで領巾を打ち振りました。流した涙が水溜まりとなり、やがて山頂の池(蛇池)となったと言われています。多くの言い伝えの中には、この池で佐用姫が亡くなったとする説もあります。
 佐用姫が領巾を振ったことから、鏡山は別名「領巾振山」と呼ばれます。
 鏡山には佐用姫像があり、遠く離れていく狭手彦を今も領巾を振りながら見つめています。
 鏡山から領巾を振った佐用姫に思いを馳せた人々により、万葉集の中に次の歌が詠まれています。

 遠つ人松浦佐用姫夫恋(つまごひ)に
         領巾振りしより負へる山の名
               「万葉集 巻5 871」
 山の名と言ひ継げとかも佐用姫が
      この山の上(へ)に領巾を振りけむ
               「万葉集 巻5 872」
 万代(よろずよ)に語り継げとしこの岳に
           領巾振らしけむ松浦佐用姫
               「万葉集 巻5 873」
 海原の沖行く舟を帰れとか
          領巾振らしけむ松浦佐用姫
               「万葉集 巻5 874」

 鏡山は標高284m。展望台からは、虹の松原や唐津湾に浮かぶ多くの島々、唐津城、市街地が一望でき、天気がよければ壱岐の島を見ることもできます。春は桜が咲き誇るのをはじめ、四季折々の姿で訪れる人々を楽しませてくれます。
 時代とともに風景は変わってしまいましたが、佐用姫が見た景色はどのようなものだったのか、往時を偲んでみるのも良いのではないでしょうか。
【場所】 唐津市浜玉町から鏡にかけて

■足跡が残る 佐用姫岩
 船影を見送った佐用姫が、狭手彦を追い鏡山から飛び降りたとされるのが、松浦川にある花崗岩、佐用姫岩です。岩の上には佐用姫の足跡としてうっすらとした窪みが残っています。狭手彦からもらった銅鏡を落としたのもこの地とされていて、その言い伝えを語りかけるように清らかな水が、鏡のように佐用姫岩を映しています。
 佐用姫岩の周囲は整備され、水面で遊ぶ鳥の姿を眺めながら、ゆったりとした時間を過ごせる憩いの空間となっています。

万葉集の1節には次の歌も詠まれています。

 行く舟を振り留みかね如何ばかり
           恋しくありけむ松浦佐用姫
               「万葉集 巻5 875」
【場所】 唐津市和多田

■佐用姫が衣を乾かした 
  衣干山(きぬぼしやま)

 佐用姫岩から、さらに狭手彦の姿を求めて追いかけた佐用姫が川で濡れた衣を乾かしたとされるのが衣干山です。標高163mとあまり高い山ではないため、ここから船影は見えなかったということです。
【場所】 唐津市西唐津

■狭手彦が佐用姫を祈った 
  恵日寺(えにちじ)


 本尊の観音像は、狭手彦が朝鮮より持ち帰り、佐用姫の菩提のために安置したと伝えられています。佐用姫観音像と呼ばれ、不定期に行われるご開帳以外は目にすることができません。
 この寺には、国の重要指定文化財である銅鐘(朝鮮鐘)があり、李朝以前の朝鮮鐘は日韓合わせて51口しかないため、貴重な1口となっています。高さは73cm、口径51.4cm。龍頭や菩薩像の繊細な飾りが施されています。

【場所】 唐津市鏡山添1693
【お問い合せ】 恵日寺 0955-77-0805

※佐用姫と狭手彦の伝説にふれながら、唐津を旅する「佐用姫ロマン紀行」は、
  こちらから〜  http://www.karatsu-kankou.jp/history_sayohime.html
■田島神社(呼子)
  
呼子の由来にも
 「佐用姫が遠くなっていく恋人の船影を見送り、狭手彦の名を呼んだから、呼ぶ名の浦、また呼子と呼ぶようになった」という説があるそうです。
 「呼子」と言う地名の由来には、他にも諸説あるそうですが、佐用姫の悲恋伝説、終着点として、なんともふさわしく、ロマンチックに響いて感じるのは、住人の身内ビイキからでしょうか。

片想い限定?
 呼子町・加部島(カベシマ)の田島神社の境内に、松浦佐用姫を祀った佐用姫神社があり、ほの暗い社の中央に「恋人・大伴狭手彦との別離を嘆き、泣きはらし、終には石になった」と、伝えられる、佐用姫望夫石が座してあります。
 言われてみれば、なんだか、女性が伏せているような形をしています。恋人との悲しいお別れをした、佐用姫様は、片想いの女の子の味方?恋愛成就の神社として、親しまれています。
 現在片思い中のあなた!バレンタインのチョコレートを渡す前に、チョコッと、お参りしてみるといいかもしれませんね。ただし!昔から、恋人同士で行くと、佐用姫様がヤキモチを焼いて、上手くいかなくなる…という噂がありますので、ご注意を。ちなみに、ご夫婦なら大丈夫だそうです。
   
  海原の 沖ゆく船を 帰れとか
          領巾ふ羅しけむ 松浦佐用比売

                     (万葉歌碑  田島神社境内)

 この歌は、万葉集(巻五・八七四番)にあり、山上憶良が詠んだ歌だと伝えられています。昭和37年12月4日に建立されたこの歌碑の裏面には、当時の呼子町長、落合勝郎氏の次のような撰文も刻まれています。「伝説松浦佐用姫の望夫石は、古くより訪ひ来りてその涙痕を偲ぶ人少なからぬところ(中略)願はくば佐用姫の貞魂永へに蘇り哀々別離の苦思を人人の胸に訴へむことを」

  遠くゆく つまに別れの 領巾を振る
          その立姿 美しかりけむ

                     (杉浦翠子女史の歌碑  田島神社境内)

 この歌碑は、昭和41年10月16日に建立されたもので、田島神社の境内へ上がる石段の横に立っています。杉浦翠子女史は埼玉県生まれで、呼子へ来た事はなかったそうです。

天童岳の佐用姫像
 「田島神社由緒略記」の「佐與(用)姫神社由緒」によると、佐用姫は、松浦山(現在の鏡山?)で領巾(ヒレ)を振った後、「狂乱の如く走りて田島に到り、田島岳(現在の天童岳)に登り、更に遥かなる帆影を追うと雖も、既に白雲青海に接して見るものなし」とあります。
 この伝説に由来して、天童岳頂上には、佐用姫の陶像があります。この陶像は、昭和10年に制作されたもので、唐津焼では最大の陶像だそうです。
 呼子遊覧ヘリコプターの搭乗場所から登って約30分。ちょっと大変ですが、鏡山から渡って来た佐用姫が、恋人の帆影が見えまいかと追ってきたという熱い情熱を、恋人と一緒に感じられるかもしれませね?

※佐用姫と狭手彦の伝説にふれながら、唐津を旅する「佐用姫ロマン紀行」は、
  こちらから〜  http://www.karatsu-kankou.jp/history_sayohime.html

■まつらの姫達の宴
〜佐賀県からつ領巾振(ひれふり)の嶺(みね)〜
 「まつら」とは、唐津市や東松浦郡などの古い呼び名で、語源は「魏志倭人伝」にも記された末盧国(まつろこく)がこの地方であったためとされています。
 “まつらの姫達の宴”は、2月23日〜3月9日に古代の森会館(唐津市鏡)を中心に開催される女性や唐津にまつわるイベントの総称です。
 「まつら」にゆかりのある雛人形の展示や唐津に古くから伝わる劇など、盛りだくさんです。

【期間】 2008年2月23日(土)〜3月9日(日)
※ イベントごとに開催日が異なりますのでご確認ください。

[内容]
●万葉の女とおひな様展・・・川崎幸子の世界
【日時】 2008年2月23日(土)〜3月9日(日)9:00〜17:00
【場所】 古代の森会館(唐津市鏡)展示場
【入場料】 100円(子供50円)

●特別講演『説経節(せっきょうぶし)、松浦佐用姫を語る』
【日時】 2008年2月23日(土)10:30〜12:00
【場所】 古代の森会館(唐津市鏡)大会議室
【入場料】 無料
【講師】 九州工業大学教授文学博士 近藤直也氏

●まつらにゆかりのおひな様展
【日時】 2008年2月23日(土)〜3月9日(日)9:00〜17:00
【場所】 古代の森会館(唐津市鏡)語り部の間
【入場料】 無料

● 唐津かんね祭り〜かんね劇と歌
【日時】 2008年2月24日(日)13:00開始
【場所】 古代の森会館(唐津市鏡)

●まつらの姫達の宴ウォーキング
【日時】 2008年3月8日(土)9:00開始
【場所】 宝満神社参拝・宝くじ付(唐津市宇木)
【参加料】 400円

●第6回「まつらの万葉かるた大会」
【日時】 2008年3月2日(日)12:30〜17:00
【場所】 古代の森会館(唐津市鏡)

●古代の森の梅まつり・物産展
【日時】 2008年2月23日(土)〜3月9日(日)9:00〜17:00
【場所】鏡神社境内に咲き誇る白梅・紅梅(唐津市鏡)

【お問い合わせ】 古代の森会館 佐賀県唐津市鏡1826-2
           TEL 0955-77−0510  FAX 0955−77-2490



■恋人の聖地・浜野浦の棚田
 NPO法人地域活性化センターが、実施している「恋人の聖地プロジェクト」の選定地に佐賀県から唯一、玄海町の「浜野浦の棚田」が認定されました。
 このプロジェクトは、少子化対策と地域活性化を目的とし、プロポーズをするのに最も相応しい場所として、桂由美さん(デザイナー)、假屋崎省吾さん(華道家)、菊川怜さん(女優)などの恋人の聖地選定委員会により「恋人の聖地」として施設や場所が認定されます。
 平成19年4月1日、全国44番目に、認定され、玄海町では、「玄海町恋人の聖地プロジェクト実行委員会」が立ち上がりました。
 そして、バレンタインデーに合わせて、大好評の『らぶ絵馬』が2月1日より期間限定、シリアルナンバー入2枚組で発売決定!!
今年のバレンタインデーは、ちょっと特別なイベントにしてみてはどうでしょう?

詳しくは、「玄海町恋人の聖地プロジェクト実行委員会」  http://koipro.town.genkai.saga.jp/blg/

■メールマガジン「いいかも唐津」が創刊
 平成20年1月10日に唐津の観光情報発信を目的に、メールマガジン「いいかも唐津」を創刊しました。「イカの活きづくり」でお馴染み、呼子(よぶこ)のケンサキイカの「ケンちゃん、サキちゃん」をナビゲーターに、古くから大陸との交流もあり、開放的で開けっぴろげな城下町「唐津」 からのイベント・観光情報を毎月お届けしていきます。
 創刊号は、新年にちなんだイベントを中心にいろいろな情報をご紹介しています。

 ご購読はこちらから −> http://www.mag2.com/m/0000255053.html 
 創刊号はこちら − > http://archive.mag2.com/0000255053/index.html
   

■唐津・おも城話その(4)

 古くから大陸との交流もあり、開放的で開けっぴろげな城下町「唐津」のシンボル“唐津城”は本年、築城400年を迎えます。「唐津・おも城話(おもしろばなし)」では、400年祭に向けて行われる様々なイベント情報や、唐津のお城にまつわる話をご紹介します。

玄界灘に臨む要衝の地に築かれた唐津城は、400年前のリサイクル建築?
 唐津城は豊臣秀吉の側近だった、寺沢広高によって築かれた城で、慶長7年(1602)から7年の歳月をかけて慶長13年(1608)に完成し、今年で築城400年を迎えました。建築資材は、秀吉が文禄・慶長の役(朝鮮出兵)のため、現在の唐津市鎮西町(ちんぜいちょう)名護屋(なごや)に築かせた名護屋城の解体資材を用いたといわれています。
 ちなみに唐津城以外にも西寺町にある最後の唐津藩主小笠原氏の菩提寺、近松寺(きんしょうじ)の山門も、名護屋城の門の一つを移築したとわれています。また、新町の正圓寺(しょうえんじ)では名護屋城より“太閤の居間”を移築し、座敷に使っていたといわれていますが、現在は、その「釘隠し」(柱に打った釘の頭を隠す装飾金具)のみが残されています。
 築城にあたっては、九州各地の大名の支援を受けたことから柳川堀、佐賀堀、肥後堀、薩摩堀など協力した藩の名が堀につけられました(復元された肥後堀のみ現存)。築城当時に天守閣はなく、現在の五層五階、地下一階の「舞鶴城」とも呼ばれる美しい天守閣は、昭和41年に完成したもので、趣きあふれる茶室などがあり、市民や観光客に親しまれています。各階は藩制時代の貴重な資料や古唐津、武具の展示館となっており、槍の名手、安田作兵衛が本能寺の変で一番に織田信長を刺したといわれる槍も見ることができます。
 江戸時代を通じて唐津城は、藩政の中心としてだけでなく、陸海の要衝の地として大久保氏、松平氏、土井氏、水野氏、小笠原氏などの有力な譜代大名が幕末まで藩主を務めていました。城の南側の内町・外町と呼ばれる城下町は、西国交通の要所として繁栄し、「唐津くんち」にみられるような豪奢で、活気のある町人文化が今に伝えられています。

唐津城築城400年記念イベント 「城を移す−名護屋城から唐津へ」
群馬県で発見された「肥前名護屋城図・唐津城図」なども初公開!

 肥前名護屋城から唐津城築城の様子、藩政期の唐津城や城下町の状況を示す絵図や文書、発掘調査で出土した資料なども展示公開。さらに、名護屋城博物館が新たに購入した「慶長肥前国絵図」や、群馬県で発見された「肥前名護屋城図・唐津城図」も同館所蔵の「肥前名護屋城図屏風」とともに初めて公開されます。

【期間】 平成20年2月15日(金)〜3月23日 (日)の38日間(うち月曜日休館)
【会場】 佐賀県立名護屋城博物館 TEL 0955-82-4905
【観覧料】 無料

第27回全国城下町シンポジウム唐津大会に参加予定の城下町を紹介します。

小田原城
(神奈川県小田原市・第4回シンポジウム開催地)
 戦国時代から江戸時代にかけての平山城。国指定史跡。
 大森氏により15世紀中頃に築かれました。北条氏の居城となってから、関東支配の中心拠点として拡張整備され、豊臣秀吉の来攻に備えて城下を囲む大外郭を完成させると、城の規模は日本最大の中世城郭に発展しました。
 江戸時代には小田原藩がおかれ、徳川家康の家臣である大久保忠世(ただよ)が初代藩主となります。その後、阿部家、稲葉家、再び大久保家が藩主となり、箱根の関所を幕府から預かる関東地方の要塞として、幕末まで重要な役割を担ってきました。

●唐津との縁
 初代藩主大久保忠世の後を継いだ長男の大久保忠隣(ただちか)は、本多正信との政争に敗れ(諸説あり)1614年に失脚し、一族の多くが処罰を受けました。しかし、忠隣の武功が大きかったことから、孫の忠職(ただもと)が大久保家の家督を継ぐことが許されました。
 その後、忠職は1649年に唐津藩主となり、唐津藩政の基礎固めに努めました。後を継いだ大久保忠朝(ただとも)も庄屋が領内を転勤する制度を創設しました。忠朝は「老中」になり、1678年に佐倉藩へ移った後、1686年晴れて小田原藩に復帰し、大久保家の復興を遂げたのです。以後10代にわたり大久保家が小田原藩を治めることになります。

熊本城(熊本県熊本市・第10回シンポジウム開催地)
 54万石の城下町・熊本のシンボルであり、日本名城の1つです。中世にはすでに出羽氏が築いた千葉城と鹿子木氏が築いた隈本城がありました。その後、加藤清正が千葉城・隈本城を取り込んだ壮大な城郭を築きはじめ、1607年に城を完成させ、隈本を“熊本”に改めました。清正公が天守前に銀杏を植えたことから別名“銀杏城(ぎんなんじょう)”とも呼ばれます。
 熊本城は、優れた土木治水の技術、石垣の技術を駆使して築かれており、上部に行くにしたがって反り上がる石垣は“武者返し”と呼ばれるものです。加藤家改易後、1632年に細川忠利が領主となり、約240年にわたり細川家の居城となりました。明治10年(1877年)の西南戦争では、天守閣などが焼失したものの52日間の籠城にたえました。武者返しが大いに役立ち、難攻不落の堅固な造りが証明されたのです。
 現在、熊本城一体で熊本城築城400年祭が実施されています(平成20年5月まで)。

ATAだより
 まだまだ、寒さの続く頃ですが、ATA事業部(唐津よかばい旅倶楽部)では、熱い企画をもうすぐお披露目予定です。
 予ねてより研修を重ねていた“よかばいガイド”(仮称)において、唐津の観光ガイドを認定する目途が立ちました。
 審査員をお客様に見立て、選択したコースを実際にガイドをして回り、合格すれば“よかばいガイド”の認定を受けるという仕組みです。審査員は、当観光協会や官公庁などから唐津の観光に詳しい方のほか、一般の方にもお願いする予定です。
  「唐津の観光の起爆剤になれば…」という強い思いや、「唐津の観光資源を是非紹介したい」などの様々な思いから、準備を重ねてきたガイドを志す唐津市民30余名。
 認定は、ガイド研修生が中心となって選んだコースで行われます。城下町唐津の見所をしっかり盛り込まれており、トイレ休憩ももちろん!ですが、中にはお茶やおいしいスイーツ付のコースもあり、変化にとんだ内容になっております。
 次号ではコース内容をご紹介いたします。


「唐津の食」紹介

 
佐用姫の名前がついた、おいしいものを紹介します!

我楽房のパン「松浦佐用姫」

 唐津市相知町の山手に、石窯天然酵母Bigパンの「我楽房」があります。
 唐津ならではの名前をということで「松浦佐用姫」と名付けられたパンは、ローズヒップとフルーツが入った素朴で香り豊かな天然酵母パン。その大きさはずっしりと1sもあり、そのままでもトーストしても美味しくいただけます。
 ご主人がご家族のために安心で安全なおいしいパンを作られたのがきっかけで、やがて友人にふるまううち、リクエストされて販売されるようになったそう。見事な石窯とおしゃれな店舗も魅力で、パンを買ったあとは、店内でご主人こだわりのコーヒー(有料)も楽しめます。

【価格】 松浦佐用姫 1個 1,050円
【場所】 唐津市相知町楠175
【お問い合わせ】 我楽房0955-63-4492
【営業時間】 金・土・日・祝日 9:00〜18:00

開花堂の「さよ姫」
 1898年創業の老舗和菓子屋「開花堂」。
 その名のとおり、品の良い甘さと精巧な貝の形がかわいらしい「さよ姫」は、長年地元で愛されています。このほか、唐津にちなんだ名前のお菓子「かんね餅」や「唐津白浜」などがあります。また季節を感じさせてくれる生菓子は、ひと月ごとに種類が変わり、店内でお抹茶一服(生菓子付、300円)がいただけます。

【価格】 さよ姫 大1,050円 小735円
【場所】 唐津市本町
【お問い合わせ】 開花堂0955-72-5750
【営業時間】 8:00〜19:00 火曜日は〜17:00不定休

唐津ロイヤルホテルのカクテル「さよひめ」
 唐津ロイヤルホテルのメインバー「マーメイド」では、松浦佐用姫の美しさと情熱、そして涙をイメージして作られたオリジナルカクテル「さよひめ」を味わえます。その他カクテルも種類豊富、松浦川を眺めながらゆっくりと過ごせます。

【価格】 1,200円
【場所】 唐津市東唐津
【お問い合わせ】 唐津ロイヤルホテル0955-72-0111
【営業時間】 20:00〜23:30 ※貸切の場合あり。
唐津よもやま話

辰野金吾その(3)唐津市内ゆかりの場所

赤煉瓦の美 旧唐津銀行本店
 唐津出身であった辰野金吾が故郷に残した建造物は唯一、唐津小学校だけでした。しかし、その唐津小学校も現存しておらず、面影を辿ることができるのは旧唐津銀行本店のみとなっています。
 旧唐津銀行本店は明治45年(1912年)竣工。煉瓦造地下1階、地上2階建ての建物で、清水組(現清水建設)の技師長田中実設計、施工によるものです。田中実は辰野金吾の愛弟子であり、旧唐津銀行本店は辰野金吾の監修があったとされています。
 辰野式と呼ばれるクイーン・アン様式を日本化したデザインで、屋根の上に小塔が載り、外壁の赤と白のコントラスト、左右対称の車寄せ、渦巻き装飾のイオニア式の柱などが見る者の心を惹きつけます。外壁の化粧材は従来の赤煉瓦ではなく、煉瓦タイル貼りとなっており、明治期の赤煉瓦から大正期の煉瓦タイルへ変遷していく時代性が現れています。
 煉瓦のヴォールト構造や小屋組の洋風木造トラス工法など、当時最新の建築工法が採用されており、明治から大正にかけての煉瓦造建築物の集大成と言われています。
 屋内は1階に銀行の営業室や客だまり、店長室、応接室などがあり、暖炉の意匠や窓枠などにはアールヌーボーを意識したデザインが多用されています。2階は配膳室、シャンデリアで彩られた来賓室、総会室として使用され、また、地下は金庫室、資料室、書庫となっていました。
 辰野色が色濃く残る旧唐津銀行を保存しようと、現在改修工事が行われており、工事終了後には建築当時の意匠を蘇らせた姿を目にすることができます。
 
辰野金吾
日銀本館や東京駅を設計した“明治の建築王”。
嘉永7年 (1854)唐津藩の下級藩士の家に生まれる。工部省工学寮(現在の東大工学部)を主席で卒業。ロンドン留学後、工部大学校教授となり、現在の日本建築学会の基になる組織(造家学会)を設立。同時に辰野建築事務所を開設し、日本銀行本館や中央停車場(東京駅)をはじめ“辰野式”と呼ばれる赤煉瓦の建物など、 200以上の建築作品を手がける。大正8年(1919)没、享年66歳。

【場所】 唐津市本町1513-15
■地酒の酒粕と馬油を使った美肌石けん「さよ姫の玉手箱」
 大変な美人だったと伝えられる松浦佐用姫にちなんで「さよ姫の玉手箱」と名付けられたこの美肌石けんは、唐津市の鳴滝酒造が、同社の純米酒「聚楽太閤」の酒粕を使って開発したものです。「日本酒づくりで毎日酒粕をあつかう職人の手は、厳しい寒さの中でもツヤツヤしている」ことに着目し「酒粕の保湿効果をなんとか商品化したい」との想いが、これまた肌に良い馬の油を使った石けんを製造している、福岡の会社との出会いによって実現されました。
 新鮮な酒粕と高純度に精製された馬の油を使用し、“釜炊きけん化法枠練り”という昔ながらの製法で作られた「さよ姫の玉手箱」は、着色料や防腐剤も使用していないため肌に優しく、空気が乾燥するこの時期にこそ使ってみたくなる石けんです。

【価格】 80gと20gの2個セット(泡立てネット付き)2,100円
【お問い合わせ】 鳴滝酒造(株) TEL0955-74-3125



■遥か東北地方にも伝播していた“松浦佐用姫伝説”
 今月号の見所特集でご紹介した“松浦佐用姫”は、九州の佐賀県唐津市に伝わるお話ですが、驚く事に東北の岩手県奥州市胆沢区(いさわく)にも佐用姫にまつわる伝説やゆかりの場所がありました。しかも、名前が同じというだけではなく「肥前松浦の長者の娘」として佐用姫が登場しているのです。
 胆沢の“佐用姫伝説”によると 奥州胆沢の高山に住む掃部長者の妻は、欲深さの余り大蛇と化して村人を襲っていました。困り果てた村人たちは、その大蛇に毎年美しい娘を生贄に捧げることにしました。胆沢の郡司の娘が順番の年、郡司は身替わりをと考え、はるか九州の松浦で没落した長者の娘、佐用姫を買い求めて胆沢に戻りました。身替わりで生贄となった佐用姫は、大蛇に呑みこまれようとしたとき、一心にお経を読み経文を大蛇に投げつけました。すると大蛇は佐用姫の読経の法力によって長者の妻に戻ったということです。
 現在も胆沢区には、佐用姫を生贄にするため、4本の柱を組んだと言われる「四ツ柱」など、この伝説に登場する佐用姫ゆかりの場所が多数あるそうです。どのような経緯で東北地方に佐用姫の存在が伝わったかは定かではありませんが、“松浦佐用姫”が一地方の伝説にとどまらないことで想像力がかき立てられ、さらなるロマンを感じる話ではないでしょうか。


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